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ブログ部連動企画 「奇跡」

きょうは月に一度の「ブログ部の日」。きょうのお題は、「奇跡」。

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「奇跡」って、なんだろう?
あらためて調べてみたら、もともとは宗教的な言葉なんですね。
神などの力が起こす超常現象みたいなもので、それが転じて、常識では考えられないような出来事を指すことにもなったようだ。

世の中には「奇跡」を見ることのできるひとも見ることができないひともいるのかもしれない。ぼくにはちょっと手が届かない世界かもしれないが。

次に、「奇跡」と似た言葉は何かと考えてみる。
子供のころは「あんな風になりたい」とか、「こんなことができるようになりたい」とか考えていたものだが、もしもそれが本当に実現していたら「奇跡」的である。だから、「夢」と「奇跡」はどこかでつながっているのかもしれない。
ただ、大人になるということは、そういう「奇跡」的な夢の成就のしかたはないということを知っていくことでもある。
でも、だからといって、現実に流されるだけになるのは情けない。現実をふまえつつも、一所懸命に努力していれば、何か「福音」のような事柄が訪れないとも限らない。そう思いたい。

「セレンディピティ」という言葉がある。

一般には「幸福な偶然」のような意味だと思われがちで、実は私もそう思っていたのだが、今回調べてみたら微妙に意味が違うことが分かった。
ウィキペディアによると、セレンディピティとは、幸福な偶然という「現象」そのものを指すのではなく、それをつかみ取る「能力」を指しているのだという。具体的には、「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける才能」であったり、「ふとした偶然をきっかけにしてひらめきをえて、幸運を掴み取る能力」ということである。

セレンディピティの事例は、ノーベル賞の田中氏が失敗から科学的発見を行ったようなケースが代表的であり、ビジネス界ではポストイットの発明などもそうなのだという。
こういうと、また自分の手の届く範囲からは遠い出来事のようにも思える。しかし、もっと身近で日常的な事例も考えられそうだし、人と人との出会いから生まれるもののなかにもセレンディピティの存在はありそうだ。
自分自身の例で考えるとご都合的な解釈のストーリーになりそうなんだけど、やはり、幸福な偶然を見れるか見れないかは自分自身の在り方次第のようだ。

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論文 OR 読み物?

土曜日、論文審査会が無事終わった。

論文に対する評価としては、副査のおひとりの冒頭コメントがすべてを語っていたように思う。

「読み物として、面白かった。●●さん自身の弱みの認識。そして、そこから脱皮しようとするプロセス。それが、論文の全体から透けて見えてくる。それ自体は悪いことじゃない。だが、学術論文としては大きな問題がふたつある。ひとつには『人材育成に及ぼす効果』が付け足しみたいにして最後にでてくるということ。おそらく事前のリサーチデザインが不十分だった為であろうと思う。もうひとつは、論証の部分がトートロジーになっている。筆者が定義したことを使ってケースを分類しているが、これは結局のところ同じ主張を繰り返しているだけにすぎない」

トートロジーであるという批判は自分でも自覚していた。実は、前回のブログの中で、「・・・、『結局は何も言えてないんじゃねえか』という気持ちになったりもする」と白状していたのは、このことがあったからである。 そこで、審査会のプレゼン資料には、「論証が不十分です」ということを認めたうえで筆者としてどう考えているかというスライドを補足的に用意していた。先生にはそれを使って答えた。聞いていた同級生のひとりからは、「あんなのってアリ?ちょっと狡い」って、つっこまれたけど。

主査の先生(=指導教官)からは、「後半部分は問題があるけど、前半の理論編はしっかりと書いている」というフォローがあった。後で、先生に論文として成り立っているかどうかを聞いてみると、「一応『読めた』から安心した。そこは、さすがにMBAだって思ったよ」ということであった。・・・でも、「読めた」っていうコメントからすると、やっぱり論文というよりかは『読み物』だったのかな。

ちなみに、指導教官と話していると、「●●さんには、あえて関りすぎずに、自分で考えさせるように仕向けたんだが、ちょっと一皮むけたんじゃないの?」というコメントもあった。冒頭の副査の先生のコメントにも通じる評価だと思う。たしかに、出来上がりがどうなのかはさておき、論文作成プロセスではいっぱい考えたし、自分自身いい気づきが得られた。たとえば簡単なことで言えば、マトリックスにして分析するということの有効性をようやく今回気づくことができた。マトリックスを書くときの軸をどう置くかで、現実の見え方が変わってくるということを今回学んだと思っている。ほかの人から見れば、「MBAに来ていて、そんなこともわかっていなかったの?」ということになりそうだが、卒業前に学びを深めることができてよかったと思う。こんなレベルで卒業しちゃったら、MBAに失礼だし。。。

なお、わたしの今回の論文は「議論と対話」をテーマにしたものだが、このテーマを選んだのは、「自分は議論が苦手だ」と思っていたことが大きな理由になっている。この弱点を克服するためのヒントをつかむことができれば、MBAに来た意義も出てくるんじゃないかと思ってのことである。

結果、論文に取り組んだプロセスは自分にとって、物凄く濃密で、有意義なものになった。ただし、論文審査会が終わった今となっては、その論文に対する執着も(いい意味で)消えたように思う。論文としての評価が固まったので、これまでのプロセスをいったん清算できたというべきだろうか。終わってみれば、あっけないような気もしてしまうのだが、いまでは自分の論文は、批判的・客観的に見ることのできる対象になったのかなと思う。

最後にひとこと。以下は、論文の最後の「謝辞」の文章の後半部分です。

「謝辞・・・●●ゼミならびにMBA同期生の方々には,数々の指導・助言,叱咤・激励,支援・協力をいただきました。そもそも,本研究そのものが同期生各位の存在なくしては成立しえなかったものでありました。また,同級生の方々の存在が研究を進めるうえでの大きな推進力となりました。ここにあらためて感謝の意を表します。」

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ブログ再開

今週、月曜日に学位論文を提出した。

もともと更新がほとんどないブログであったが、この1か月間は特になにも書けなかった。最後の半月間は、かつて経験したことのないような濃密な時間だった。

とはいえ、何が書けたのかというと、自分ではよく分からない。自分のなかでは、苦しさとともに気づきや学びがあったように思うし、それを最後に提出できたことで一つの区切りをつけることはできたようには思う。

実際の論文には「これは言えた」とか、「これは言えなかった」とか書いているんだけど、ふと考えると、「結局は何も言えてないんじゃねえか」という気持ちになったりもする。このあたりのことは、少なくとも論文審査会が終わるまでカタがつきそうにない気持ちである。

なお、金曜と土曜は、(留年せずに修了できれば)MBA最後の授業となる。MBAでは色んな授業があったが、何を得て、何が自分の中に残っているのかを誰かと話し合いたいなと思う。直近の論文作成のせいで、それらがかすんでしまって、よく分からなくなっちゃっているので。。。

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