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【ブログ部連動企画】 人生、なにを心がけて生きているのか

 人生というものを比較的シンプルに考えると、一人ひとりが何を望んでいるかによって個人差が生まれてくるように思う。人生で何を得たいかが明確なひとはそこに近づいていくし、それが明確でない人はなかなか何も得られない。だから、自分の心の中に何を思い描いているかが非常に大事なことになる。
 それは自分らしいものであればよい。人と比べる必要もないし、比べても仕方がない。ただ、往々にしてムリして背伸びをしようとするときがある。逆に、勝手に壁や障害物をつくってしまって、新たな可能性への道を自ら閉ざしてしまうようなときもある。
 ぼくにはそんなことをよくしてきたような気がする。というか、最近、そう思うようになったのだ。だから、これからは変えていきたいな。せっかくの人生なんだし、どう生きるかは自分次第である。そういうことがようやく分かりはじめてきたのかもしれない。

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日本人の信仰

  いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。

上記は故・河合隼雄氏の言葉だが、自分の生と死の意味を考えようとしたり、自分の人生について物語を作ろうとするとき、「信仰」が果たす役割は大きいだろう。しかし、私を含め、多くの日本人は「これが私の信仰です」と言えるものを持ちにくいのではないだろうか。
そして、その原因は何かと考えると、日本人の不幸な過去の歴史に思いを致すことになる。

ひとつは、昭和の敗戦である。太平洋戦争では「特攻」だとか、「バンザイ」だとかいう言葉のもとに多くの命が失われたが、彼らの死の背後には「祖国のため」という物語があったと言われる。祖国を愛するナショナリズムは信仰の一種ではないかと思うのだが、戦後教育を受けた僕にはこの物語を理解することは難しい。
もうひとつの不幸な歴史は、日本の仏教史にある。江戸時代の檀家制度のもとで仏教の世俗化が著しく進んだと言われるが、葬式仏教化した宗教が生死に関する説得力ある物語を提供できていない。

なお、かつてのオウムに高学歴の若者たちが引き寄せられたのは、インテリが欲していた物語を提供できたからなのかもしれなない。。。

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